fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第18章~ 

少し話しは戻るが、雑誌オーリーにラップメンバー募集をしていたZ-ONEには自分A.Oの他に二人電話をかけていた奴がいた。


1人は一回あったけど、あまり絡みなく終わった。

もう1人Z-ONEに連絡をいれたラッパーがいた。
20歳のラッパーで名前はK (名前はふせておく)。

彼は高校生の頃からラップをしているしクラブに行き慣れてた。そしてラップもうまかった。後々よくつるんだり行動を共にする事がある。



そんな彼のライブをyokohama logosに見に行ったときに3曲入りのデモテープをロゴスのスタッフに渡した。

そして少し話してE-TRADERの横浜での初ライブが決まった。


今は無きYokohama Logosでイベント名
「濱おこし」 


それが決まったか決まる前かは覚えてないが、ストリートライブもやる!

そうイキって普通のラジカセにマイクをぶっ指して横浜ビブレの裏でライブ敢行した。

結果としては普通のラジカセだと雑踏に勝てないしマイクもやはりよくないのでグダグダにはなったが、度胸はついた。

その頃からブームボックス(でかいラジカセ)を買いたいと思うようになった。


さて、そんなこんなで横浜での初ライブがやってきた。


当時はまだ無名のサイプレス上野とDJロベルト吉野もいたイベントで横浜のラッパー登竜門的なイベントだった。

このイベント「濱おこし」は何回か出させてもらった。
ノンキがいたLife earthやステルス、ディープサワー、クリフエッジ、コンコルド、埼玉のクライマックスなどが出た。

周年イベントの時にはミスマンデーがゲスト出演してた。


初めにライブした時にZ-ONEが出演してたラッパーと知り合い次のライブのブッキングをゲットした。場所はブリッジだった。




ライブのブッキングの仕方はわからなかったが、いたってシンプルだった。
ライブ会場に行く、知り合いを増やす、その繋がりでイベントに出る。

これが基本だった。


それに加えて自分達から営業して売り込んだ。

横浜のクラブリザードという場所へはデモテープを持っていき売り込んだ結果、毎月一回のイベントにレギュラーで出れることになった。

これは大きかった毎月ライブできる場所があるのは大きな経験になる。
毎月のリザードに加えてロゴスのイベントや単発でブリッジやサーカス、、

リザードでの月1ライブはノルマがあったがチケット5枚だけだったので良心的だった。

それに加えてLASONICというメーカーのでかいラジカセ(ブームボックス)を購入して何回かストリートライブもした。


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自分で作ったオリジナルトラックでライブをやったりデモテープを作ったりした。
この頃にサンプラーを購入、王道であるAKAIのMPCが欲しかったが当時は20万くらいのモデルしかなく、、手が出なかったのでBOSSのサンプラーSP505を購入。少しずつサンプラーでも曲を作っていた。




この頃はまだMCネームを赤鬼と名乗っていたが、仲間内からはA.Oと呼ばれていた。


この頃の流行りはウェッサイスタイル。E-TRADERのスタイルも2PACXZIBITなどの西海岸のトラックでラップする事が多かった。服装も真っ白なバカでかいT-shirtにダボダボのジーパン、バンダナ、、そんなハードコアなスタイルだった。




ライブをやるにつれてやはりバックDJが欲しくなった。現場で出会うDJ達は多忙で共に行動してくれるメンバーはいなく、更にトラックメークもできるDJが欲しかったので、、


またまた 雑誌でメンバー募集!

今度は多分Woofin、このメンバー募集でDJ coverが加入!何とも凄い才能と繋がりE-TRADERの色は次第に独自性を増してきた。





そこから先は何回ライブしたか覚えてない。

もちろん最初は数えてた、しかし30回
くらいを過ぎると、、「あまり意味はないな」そう思えるとカウントはやめた。


色んな事がありすぎて文章は時系列がバラバラかもしれないが、とりあえず!初期の初期のイートレーダーはそんな活動をしていた。

まだまだ続く!




■■続く■■