fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第15章~

感覚空いてしまったがまだまだ続く。


fuga A.Oの半生 

前回は大学卒業して就職したが一週間でやめ無職になった、、とこまで話した。


無職になったがすぐに仕事を始めた。
そこそこ美味しいと話題だったラーメン屋でバイトを始めた。


その頃大学での友達が「またイベントをするから出ててもいいよ」と誘ってくれた!
開催月は7月後半その時はDJとDJをやりながらインストかけてラップライブしよう!と決めていた。目標があったので製作も頑張れた。

さてラーメン屋でのバイトは、思った以上に忙しかったし、思った以上に接客をした、今までの経験が生きたのですぐに慣れた。

2001年当時は空前絶後のラーメンブーム、景気も悪くなかったので繁盛してた。


実家暮らしで生きてたので充分な給料だったし賄いで飯代も節約できたし都合よく働かせてもらえた。



だいぶ慣れてきたのでラップを本格的にやると決めた。
まずは雑誌でメンバー募集を見て連絡してみた。

当時はインターネットもそれほど普及していなくて雑誌に電話番号とか普通に載ってた、今じゃ個人情報の問題で難しいだろうね。

二人とコンタクトがとれたけど、1人は電話で話しててピンと来なかったので脚下、もう1人とは家も近く実際にあった。
年は近いDJの男、俺はデモテープを渡して
「とりあえず聞いて、イベントあったら呼んで!」的な話しをしたが連絡はなかった、、デモテープが良くなかったんだろうな、、




パソコンもなかったので情報は足で得るしかなかった。(パソコンがあっても当時はインターネットにもさほど情報はなかった)

街のフライヤーに「出演者募集!」のフライヤーを探した、もう閉店してしまった横浜ロゴスのマンスリーフライヤーに「出演者募集」の文字を見つけた。


早速時間を作り単身でロゴスにデモテープを持って行った。

しかし、なかなか一歩が踏み出せなかった、、ひたすらクラブの前をウロウロして「今はいっぱい客入っていったから相手してもらえないかも、、」とか、軽くあしらわれる恐怖や「本当に1人でできるのか?」という戸惑いが顕著に出てしまった。

デモテープを渡すのに躊躇しまくった。。結局ウロウロしたり座ったり、コーヒー飲んだり、タバコを吸いまくったりして時間は一時間半以上過ぎた。

意を決してクラブのフロントに「出演者募集のフライヤー見てデモテープもってきました!」とだけ言い足早に帰った。

すぐに連絡がくるかな?と思ったが一向に連絡は来なかった。

やはり、、デモテープが良くないのかな? 

そう思っていた。
まあ実際良くなかったが、、そこまで悪くはなかったはずだ。


テープだけ渡しただけなのでそれも良くなかったのだろう。
プロフィールや活動歴などの紙を一緒に渡せば良かったと数年後に気がついた。


そんなこんなで再び雑誌「オーリー」を見てメンバー募集!
横浜の17歳が「一緒にラップ活動してくれる人募集!」とあった。


連絡して会う事となった。 
当時はfuga A.O 22歳だったから17歳なら、かなり年下だし気楽にできるべ!的な考えも少しはあったかもしれない。

2001年7月に実際にあった。

メンバー募集を出していた17歳は住んでる場所は青葉台

集合場所は長津田にした。
当日もう1人の男も来た。
二人とも高校生かな? 

とりあえずファミレスに入り会話をした。
メンバー募集をかけた17歳の少年がZ-ONE、青葉台に住む高校生で実際はまだ16歳で高校1年生だった。
そして、もう1人はJapmanと名乗る少年、地元は横浜阪東橋で台湾人とハーフ、年齢は衝撃的!
14歳だった!中学二年!!

幸い二人とも見た目はかなり大人っぽく見えたのでそこまでガキではなかった。20歳です!と言い張れば見えなくもない見た目。

Japmanはとても14歳には見えなかった。体もでかかったし顔も大人っぽかったから。
多分176センチ85キロくらいありそうだった。

そのファミレスで3人で活動する事を決めた。


fuga A.Oと Z-ONEの年齢差は6歳、 JAPMANとの年齢差は8歳差。
かなりでこぼこな年齢のグループが誕生した。


グループ名もファミレスで決めた

そう

横浜のラッパーと言えば?
そんなテーマの2chにも昔名前が出たグループ

「E-TRADER」だ。

読み方はイートレーダー。



ここから本格的にラップ活動が始まった。



2001年7月の事だった。