fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第25章~

2自作CD-RはMTRにマイクを刺して片手で持ってレコーディングしていた。


当時レコーディングの仕方を知らなかったのもあるし、ストリートのHIP HOPは自主製作で音は汚くてもオッケー!

みたいな身勝手な考えもあったのであまり音質についてこだわっていなかった。



しかし自主製作で全国流通するならば、もっとクオリティをあげなければ、、

そう思っていた。

そこでレコーディングアイテムを増やしてみた。

マイクスタンドとマイクポップカバーを購入してみたのだ。


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マイクスタンドでマイクは定位置に安定されて、マイクポップカバーでレコーディングレベルも安定された、そしてよりクリアーにラップが聞こえるようになった。

思った以上の効果だった。


当時から金がなかったのでレコーディングスタジオを使わずに宅録で自主製作のアルバムを作ると決定した。 




A.Oの当時の仕事はというと、、日雇いバイトは融通はきいて活動はしやすかったが、金が貯まらない!入りたいときに入れない場合も多かったので稼げない。


その為日雇いバイトは7ヵ月くらいで辞めた。しかし日雇いの期間は製作やライブに時間を費やせたので良かった。

金の事を考えるならやはり安定して働けるレギュラーバイトで月に一回給料をもらえる方が良かった。

次のバイトは横浜駅前のイタリアン居酒屋のランチ要員。ここで初めて料理の基本を学んだ、今までのバイトは飲食店で働いた事はあったが、
バーガーキングは包丁使わないし料理と言える料理は作らない。

ドミノ・ピザはデリバリー。

ラーメン屋は接客と洗い物、餃子焼きなどでたいした料理はしなかった。

イタリアン居酒屋では元寿司職人がいて怒鳴り散らされながら包丁の基礎を学び、パスタやローストチキン、チャーハンなどの作り方を教わった。


しかし、そのバイト先は七ヶ月程で店舗閉店!!支店は横須賀にしかなかったので辞めるしかなかった。。

自主製作CDはイタリアン居酒屋で働いている時に作り始めた。



バイトはせっかく覚え始めた料理を生かしたいので次のバイト先は洋食屋にした。そこは時間制限があったので居酒屋でもバイトを始めた。掛け持ちだ。


掛け持ちをしてバイトをしていたので金は稼げた。しかし体はきつかった、、1日バイトしてその後にクラブに行く事もあったのでヘトヘトにはなった。

自主製作アルバムを作りつつ、ライブも月に2~3回してバイトでは料理を覚えていった。

そんな生活をしていると、、

ラッパーで飯を食う!

という目標とは別に

自分で飲食店をやってみたい!


とも思えるようになった。。




レコーディングは自宅で順調に進んだ、ミックス作業はかなり参ったが良い感じに進めた、そしてマスタリングだけはレボリューションレコーディングスタジオを使い、マスタリングをしてもらった。

そこでプレスと流通をお願いした。



CDをつくるにはジャケットなどのアートワークが必要だ。アートワークまでは手が回らないし、素人では作れない。。
アルバムを作り始めてジャケットをどうするか?プロに依頼するか?身内で探すか?もしくは自分でやってしまうか?考えていた。


ある日のライブで絵描きに出会った。

渋谷Gameというクラブでレギュラーイベントをしていた時にE-TRADERのライブを最前列で見ていた客二人がいた。

ライブが終わると話しかけてくれて仲間のラッパーから聞いてライブを見にきた!との事だった。フライヤーで情報を得て来てくれたのだ。


直接の知り合いや友達以外がわざわざ遠方まで俺ら目的でライブまで来てくれたのは嬉しかった。電話番号を交換しその後も何度かライブに来てくれてアルバムのジャケットを担当してくれる事になった!


その男は後の輪派絵師団の団長NOIZ-DAVIだ。その繋がりでデザインに強い数人を紹介してもらいアートワークはしっかりと人員確保ができた。


そんなわけで無事に2004年12月に
E-TRADER 1st album 軟化岩石 

完成!!




更なる快進撃は続いていく。


■■続く■■