fuga A.Oの半生、まだ2003年くらい。
2MC と1DJ兼beat makerになったE-TRADER
しかし、勢いは止まらなかった。
初めてのミックステープ参加でお世話になったレボリューションレコーディングから
「コンピレーションCDに参加しないか?」
そんな声がかかった!
こちらもアーティストにも製作者サイドにもwin-winの買い取り式だったのでもちろん参加した。
このコンピレーションシリーズなどで使われる買い取り式は初期費用がかかるだけで規定の枚数を売れるアーティストであれば絶対損はしないので、躊躇する事なく参加した方がよい。
しかし、初期費用がなく20枚~30枚も知人や仲間、ライブ会場で売れる自信がない人にしてみれば厳しいかもしれない。
そう、もちろんE-TRADERは売れる自信があったので参加。
曲名はNEGATIVE
ネガティブだがリアルなパーティーソング!
DJ coverによる迫り来るようなビートに韻のインパクトが襲う。
2003年 10月にレボリューションレコーディング企画のコンピレーションCD
Signal は発売された。
E-TRADERの三人での曲を二人バージョンにしたり、A.Oとjapanの二人での新しい曲を作りまくった。
ちなみに赤鬼とは、2MCになってからは名乗らなくなった。
MC A.Oはビートメーカーとしても気合いを入れて取り組んだ。
KORGというメーカーのシンセサイザー、トライトンを10万円ほどで買ったのだ。
この頃はまだ、仲良くなった人やリスペクトできる人にデモテープを配っていたが、横須賀のイベントでDJでエンジニアのコウタロウ君とsingerのRISACOにデモテープを渡したら
「いやいや!これ作るの大変だったでしょ!金払うよ!E-TRADERカッコいいし」
と言ってくれた!
コイン数枚で買ってくれた。値段とか何よりもアーティストとして価値を付けてくれた事が嬉しかった。
そこからE-TRADERは「音源売ろう!」という事になった。
そんな事もあり製作ラッシュは加速した、
DJ coverのセンスが冴え渡るトラックと新しい機材を使い始めたA.Oのビートで10曲ほどの音源を作った。
A.OのMTRは新調してCD-Rに書き込めるタイプのものになった。デモテープからCD-Rにレベルアップした。
「CD-Rなら売れるべ!」と息巻いて簡易ジャケットを付けてライブ会場で500円で売りはじめた。
精力的なロックバンドなどは自作のCD-Rを売ったり、ステッカーやバッチなど手作りして売っていた。
また精力的なロックバンドは自分達のライブスケジュールも手作りしたり、パソコンで作ったりしてライブのお客さんに配ったりしていた。
A.Oはライブハウスによく行っていたので知っていた。
しかし、クラブでは形式にはまったフライヤーばかり配布して手作りのフライヤー、チラシはあまり見かけなかったし、自作CD-Rを作って売るB-BOYはあまりいなかった。
DJはミックスCD-Rを売る人はいたが、稀だ。
つまりバンドの連中は
『なりふりかまわずでいいから!とりあえず名前覚えてもらおう』
って印象で一生懸命。
ラッパーは
『金かけてちゃんとしたモノじゃなきゃ売り込まない、そもそもわかる奴にわかれば良くない?』
的な思考を持った人が多く感じた。
路上ライブもヒッホップの連中はほとんどやらないが弾き語りやロックバンドは機材を揃えてやっていた。
そんなバンドの良いところを取り入れて活動しよう!というコンセプトで考えが当時のA.Oは強かった。
話しを戻してCD-Rのタイトルは
疾走するMessage
たしか10曲くらい入り。
500円で100枚くらいは売れた。
初めて音楽で金を稼ぐ実感を得た。
ちょうどそのころに運命的なラッパーと出会うのだった。
■■続く■■