fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第41章~ 

店は閉めた、夢は終わった。。
しばらくは悔しくて悔しくてやるせなかった。
しかし、家にただいても仕方ない。それに金を稼がないと生活がやばい、借金もある。

働かなくてはならない。職を探し始めた。そして活動休止をしていたラップを書き始めていた。





その頃には歩けるようになっていて回復はしていた、ラーメン屋のようなハードワークはできないが仕事をしなければならない。



就職活動を始めた、妻からの提案で「しっかりと休みがあるところにしな」
確かにそうだ。

疲れが原因で事故ったのだから、しっかりと休みがある場所で働こうと思った。

歩けるようにはなったが、まだ足は痛むし夜には足がパンパンに腫れている日々が続いていたので、なるべくハードワークではなさそうな場所、、子供の為には土日休みの職場が理想。


そんな条件でハローワークで探した。

結局、学校給食に決定した。


求職のおじさんが給食のおじさんになるのだ。


仕事はやはりラーメン屋などの飲食店に比べれば相当ラクだし、きっちりとカレンダー通りの休みだし、ほぼ定時にあがれた、4ヶ月くらいは仕事中にも関わらず足が痛くてビッコひきながらだけど何とか乗り越えた、足がパンパンに膨れ上がってしまっていた。

しかし、徐々に慣れてきて足の具合もだいぶよくなってきてはいた。

普通の生活を取り戻しつつあった。そうなってくるとラップ活動を再開したくなってくる。



実は療養中の夏に一回ライブをした。
足の療養中に曲を書いていたのだ。


2011年夏にマイメンで仲間のビートボクサーが亡くなった、その一周忌パーティーで1曲だけライブをした、しかし1曲だけでバテバテだったし足に力入らなくて転んだ、、

2009年末の活動休止から初めてのライブだった約二年半ぶりのライブだった、2011年末には久しぶりにクラブに遊びに少しだけ行って無茶ぶりでフリースタイルをやらされた事はあったが、「腕衰えてないですね!」などと言われて嬉しかった。

店を営業してた時もフリースタイルだけは脳内で刻んでいたのでそれが良かったのかもしれない。




そんなわけで活動再開。

仕事も普通のサラリーマンのような仕事にもどりたまにライブをするスタイルになった。

よく
ライブに呼んでくれたのはHASHI-WATASHI主催のシンクロスタイル!

彼らのイベントがあって本当に救われた。 

この頃からfuga A.Oと名乗るようになった。

A.Oで活動しようとしたが、検索しても検索しても自分の名前はほとんど出てこない。

それならば検索して一発でヒットするMC名に変えよう!と思ったのだ。


日本人らしい曲を主体に作るつもりだったので風雅な表現をしたい、よし風雅A.Oにしよう。

風雅をアルファベットに変えて

fuga A.Oとした。










■■続く■■