fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第38章~

2010年は開業の年、そして12月には初めての娘が産まれた年だった。


2011年もジリ貧ではありながらも営業を続けた「いつか売れる!」と信じて。

そして日本人なら忘れもしない 3.11がやってくる、、

店の営業時間は12時-15時で一回店を準備中にして休憩し17時-22時まで夜の営業をしていた。

東日本大震災が起きたのは2:45分くらい、ちょうどランチのお客さんが帰りお客さんがいない時に激しく揺れた。
店自体は物が壊れたり、スープがこぼれたりはなかったが即停電してしまった。


もちろん電車も止まっていたので親が連絡をくれて迎えにきてくれて助かった。

震災後は震災後不景気があった。世間は徐々に回復していたが、小さい店で場所の悪い店は1人でも常連の客足が遠のくと痛手となった。

ちなみに実家は庭から泥が噴水のように吹き出し液状化、横浜での液状化はあまり知られていないが自分の家がまさか被災するとは思っていなかった。

元々ドブ(土腐)だった土地を埋め立てて40年以上前に建てられた家だったから液状化した、、と後から知った。

家と隣のアパートは傾き屋根と屋根がぶつかる程傾いた。

玄関もカッチリと閉まらない状態で鍵をかけられず状態だったのでそれは早々に直してもらったが、しばらくは傾いた家で皆暮らしていた。



店は震災後不景気のあおりもあったが細々と経営は続けていた。

22歳の頃は一時期ジムに通っていて体重が72キロくらいあったが(それでも180センチにしては痩せ型か)店をほぼ1人で切り盛りしていたら体重が62キロまで落ちた。

週に6日は昼と夜の2食はラーメン、朝はパンやおにぎりだけの生活を続けたらそこまで落ちた。

疲れは毎週ピークに達して週一の休みで何とか働ける状態を保っていた。電車通勤には限界を感じていたのでスクーターを買い、スクーター通勤に変えた。ちなみに18の頃からずっとバイクを乗っていたが店を開く際に少しでも資金の足しにするためにバイクは売ってしまっていたのだ。

 

ある日事件は起きた。
いつも通り店にいくとシャッターが少し空いている。。

「あれ?閉め忘れたかな?、、そんな事ねーべ!」
急いで店に入ると券売機が破壊されていた。

「やられた!!」

空き巣にやられた。


たまたま券売機にお金を入れっぱなしにしていたのだ、、
その時は毎日入金しなくて、券売機に鍵をかけて保管していたのだ!

券売機もシャッターもおそらくバールのようなものでこじ開けられていて何日か分の売り上げを、ごっそりもっていかれた。
  

券売機に金を入れておくのも良くないが、何より盗む奴が悪い!
怒りと悲しみが同時にこみあげた。

幸い家財保険で修理代と盗まれた金は8割くらいは帰ってきたけど、2割を理由もなくパクられるのは本当に納得いかなかった!
勉強代として諦めるしかなく、悔しかった!




2011年の10月くらいに実家を建て直す事になった。約半年は傾いた家で暮らしていたが、やはり平行感覚が麻痺して体調が悪くなりやすいようだ。確かに歩くと加速するような感覚に陥るくらいの緩やかな坂になっていたから。


親と自分でお金を出しあい建て直す事になった、しかし親の方が多くだしてくれて本当に助かった。親の世話になるなんて32歳にもなって情けない、、そう思った。

実家は建て直しで二世帯住宅にする事になった。


完成は2012年4月くらい。



店の営業は厳しいながらも試行錯誤して切り盛りしていた。


■■続く■■