fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第34章~ 

2008年末にE-TRADERは活動休止となった。


2009年からソロラッパー
A.O(from E-TRADER)として活動すると決めた。

早速2009年の1月にはライブをしたが、覚えたての曲と1人でライブをする事の大変さを思い知った。



この頃から仕事での独立願望が強くなっていた。

以前はカフェ開業を目論んでいたが、現実的に売れるのは本業のラーメン屋かな?そう思い始めた。
カフェでは儲ける、稼げるイメージはわかなかったからラーメン屋を独立開業したい!そんな気持ちが強くなってきていた。




とにかく仕事とラップの両立に心掛けた。

捨てる神あれば、拾う神あり


とはよく言ったもので、相方タクマに見捨てられ(見捨ててない!)とタクマからはツッコミが入るだろうけど、端からみたらそう思われても仕方ないな と思ってた。



ソロになったらライブ呼ばれないんじゃ、、?そんな不安もあったが、仲間からライブ出演依頼をよくもらえた。


特に感謝すべきは毎月yokohama 7th Avenueでのレギュラーイベントに呼んでくれたファイブリットモンキーズの二人だ。


本当に感謝している。

他にも単発で色んなところでライブさせてもらい、月に一本くらいはA.O名義でライブできた。

2009年のDJ K.A.Z君主催の7th avenueでのイベントで一回だけタクマとE-TRADERの曲をライブした事もあった。




あとソロになって始めたのはストリートライブだ。
ブームボックスにマイクを刺して川崎の路上でライブをした。

ソロになって「人と同じ事をしてたらダメだ、、」そう感じたのでやったのだ。
タクマという強烈な上手さで人を惹き付ける相方がいない状態で活躍する為に思考錯誤した。その一つが川崎での路上ライブだ。






川崎は路上ライブに寛容という情報があったので慣行した。路上ライブには毎回パインというラッパーが来てくれた。

パインは
後に瑞雲というラッパーとDJ K.A.Zとパインの3人でHASHISH-WATASHIというグループを組む。そんなパインは家から近かったのもあるし、一緒にライブやフリースタイルのサイファーをしてくれた。


路上ライブも何回かやって、タクマやアメリカからトニーやトニーの友達も遊びにきてくれた。

1人でもやれる自信がついていた。


しかし、転機は訪れる。


一気に独立開業の思考が強くなってきたのだ。。




2009年仕事は4年ほど続いていた。

もちろん1~10まで1人でラーメンは作れるようになっていたし、多少混んでも効率よく店を回転させる術も身に付いてきていた。


自分は順調だった。


変わったのは店側だった。

一年くらい前多分2008年くらいから多店舗展開の動きが活発になった、それにともない個人店から会社へと登録した。これで一応社員となったが、給料は現金支給で年金や保険は自分で払うので給料に関しては個人店のままだった。



そして新店舗が東京にできた。しかし8ヶ月程で閉店。


また、本店の近くに新しい店も出店したが、そこも長続きはしなかった。


当時リーマンショックの影響で、景気が悪化していた、多くの飲食店の売り上げは落ちていた。その影響もあって閉店というのもあるだろう、、本店の売上もかなり減っていた。




この頃から、社長や新しく入った社長お気に入りのスタッフと自分の温度差が出てきた。

新しいやり方を推して(閉店しているのに)くる社長や新スタッフ。
こちらは従来のスタンスでやった方が良いと内心は思っていた。

やはり考え方が違うスタッフがいると風当たりも強くなる、こちらも信念がある。

今思えば、ラーメン作りに関して自信が過信になっていて、それが社長の鼻についたのかもしれない。。



次第にお互いストレスが強くなっていくのはわかった。

だが喧嘩などしたくないし恩義もある。


そして 独立開業を決心したのだ。

2010年3月までにお世話になったラーメン屋を辞める事にした。


こうなると本格的に開業準備に取り組まなければならない!、、そんな理由で2009年の一年間だけでソロラッパーとしての活動も一旦休止した。。



■■続く■■