fuga A.Oの半生。
今回は大学二年アーティストとして歩き始めた。。
大学一年は本当に遊んだ、念願のバイクを手に入れた事で気持ちがでかくなっていた。
孔雀が綺麗な羽を広げ自分をでかく見せるように、アイテムで自分をでかくしてるようだった、、
自分は強い!と根拠のない自信でマフラーも直官にして爆音だった。
今になって思えば必要ない強がりだった、子供ができて1歳くらいの時にバイクの爆音が怖くて子供が泣いていたのを見て、、「ああ 俺は他の家の子供を泣かせていたかもしれないんだ、、反省」と反省した事など当時は露知らず。いきがっていた。
何か誇れるものはあったか?と聞かれると実は何もなかったのに。
そんな延長で大学二年。19歳
夏には地元の友達と広島へツーリング。オール下道で2日かけて行ったのは一生の思い出、月の明るさや水の大切さを知った。
そこでバンドをやるきっかけの一つが生まれていた。
広島に行く理由は友達の1人が広島出身で中学生まで広島にいた奴がいたので、その友達に会いにいく目的もあった。
そこで広島の女友達もできて語っていたら、「女を騙す男が多いけん」などという女がいた。
すかさず
若かりしfuga A.Oはこう言った
「それは男じゃないよ」
それを聞いたギタリストの地元友達チアキは「熱い!お前熱いな!今度曲作ろうぜ!」と
その頃は音楽をやろうと思ってなかったのでピンとこなかったが、こういう熱い思いを曲にすれば良いのか、、と思った。
そして広島から帰り相変わらずのだらけた毎日、適当に大学へ行って遊んでバイトして週に一回バスケットをして、、
そんな毎日。しかしバイトの先輩で社員だった大崎さんとの出会いが人生を変えた。
6個上の大崎さんは怖かったので最初は距離をおいていたが、慣れてくると面白くてカッコいい先輩だった。
そんな大崎さんがバンドをやっていると話しを聞いた、それからライブに誘ってもらい見に行った。
バンド名は「ママ(後にGrasshopperに改名)」ジャンルはハードコアだった。
衝撃的だった。
後々わかった事はマッドカプセルマーケッツのようなバンドだった。
対バンのバンドもかっこよく、ラップを取り入れたハードコアバンドもあり、それをミクスチャーだと知った。
そのジャンルはノータッチだった為、衝撃を受けた。それから山嵐やレイジアゲインストザマシーンなどにはまった。
ライブに行くと大崎さんの仲間がスケボーをしてて、まずスケボーにはまった。
大崎さんと仲良くなってから「お前もバンドやれよ」と声をかけてもらった。
迷わなかった。
昔から好きだったラップを活かせるバンドをしたいと思った。
早速ギタリストチアキにバンドをやろう!
と誘った、バンド「ZIGUMO」の結成だった。
リズムマシンでチアキが作ったオケにラップのシャウトを乗せた。
最初は高校の頃からつるんでるユウヤとツインボーカル!
ボーカル=赤鬼 &ユウヤ ギター=チアキ
ボーカルを、するとき赤鬼と名乗る事にした。その時ウズマキってバンドのボーカルが「獣」ってステージネームつけてたから、あと後々ラッパーとしてもやるつもりだったのでMC名をつけたのだ。
赤い鬼=AKA ONIを略してA.Oとなり、ソロラッパーになるときにMC名をfuga A.Oとした。
ZIGUMO
ベースは大学で出会った友達ケイジ!ケイジは北海道出身でバイクも乗る奴。
ドラマーが中々見つからなくて2~3人変わった。皆ドラム候補が初心者だったのもありドラマーは定着しなかった。
そうこうしてるうちにツインボーカルの1人ユウヤが脱退。
初心者にありがちなリズム感の壁でリタイア。自分もリズム感なく走ってたけど、情熱でごまかしてた。
ケイジの紹介でドラムのホリが加入!これでやっと形になった。
4ピースバンド。ZIGUMO
初めて作った曲の名前は
突破マッハ99
意味はよくわからない!
韻もよくわからずに勢いだけで作った。
1999年 アーティスト活動がスタートした。
■■続く■■