fuga A.O ~HIP HOP BLUCE MAN~

ラッパーでハーモニカ吹きのfuga A.Oのブログ

fuga A.Oの半生 ~第10章~

今回は大学一年生になったfuga少年の話し。


前回まで忘れてたけど高校時代からバイクに興味を持ってた。
高校二年で結構皆原付免許とって遊んでたのが羨ましくて、川原でmonkeyに乗らせてもらってクラッチバイクの楽しさを知った。 

高二の時、家にスクーターがあったので無免許で何度か勝手に乗ってしまい、警察に捕まった。親呼び出されて迷惑かけた。


その後何とか高二で原付免許をとって、高三の冬に小型限定二輪免許を一発試験を4回落ちて5回目で取得。
これによって車の免許も学科免除となる。

中型二輪にするには限定解除講習を教習所で5回くらい受ければ簡単に安く中型二輪も取得できるから。


って事で大学に入って6月くらいには中型二輪免許を取得。

その後すぐに車の教習所も通い9月には普通免許も取得。


免許とって、すぐに大学で友達になったサトルからバイクを安く譲ってもらう事になった。なんと当時大人気だったアメリカンタイプのバイクHONDA STEEDをたったの10万円!更にカスタム用のウインカーとマフラーまでつけてくれた。。




☆☆

話しをだいぶ戻そう。

まず、なぜ大学に行ったか?
高三の時、自分なりに将来何をやるか?考えた。

クリエイティブな仕事をしたい。
人を笑顔にしたい。

そう漠然と思っていた、芸人になりたい気持ちも少しあったかもしれない。


人を笑わせるのは好きだったし、極楽トンボのコントのマネでデブな友達にドロップキックしてゴロンゴロン転がってもらったり、冬の川にパンツ一丁で入りケツをだしたりしてたので、それに卒業文集にこんな事も書いていた。


出川哲朗の弟子になって、そこからブレイク」
半分はネタだったが、先見の明はあったなと今になって思う。

その頃の出川哲朗と言えば嫌われ者だったが、鋭いリアクション芸は本当に面白かった。


だから芸人になりたい!とは少し思っていたが、恥ずかしがりやの照れ屋の性格。特定の友達の前でしか面白い自分を発揮できず、大勢の前に出るなんて嫌だと思ってた。


高三の時将来やろうとしていた事、それはテレビのディレクターだった。
お笑い番組の裏方だ。


放送系の専門学校に行こうと思ったが、ディレクターはいいとこの大学出身が多い。

と言われて大学を目指す事にした。


それも理由ではあるが将来の事よりもより多く遊べる大学を選んだのが一番の理由だろう。


それで大学に入学したのだ。


まず大学へ入ったらサークルに入ろうと思っていた。その時流行っていたオールミックスサークル?ジャンルのない「遊びサークル」。大学に入る前に憧れてた。

そこでイケてる奴になって、バイクも買って、彼女もできて、、


ってな妄想を膨らましてサークルに入ってみた。


何度か飲み会をしてバーベキューをしてバスケットをして飲み会をした、、休み時間はそのサークルの溜まり場に行った。

飲み会は意味もなく盛り上がる、スポーツの遊びは皆ド素人だから尊敬もせず、中身のある人間が少ないのでは?

そう思うと自然にいかなくなった。つまらなかった。


それよりも自然に友達ができた。
その友達の一人がバイクを売ってくれたサトルだった。

  
高三の時にディレクターになる、気持ちもまだあったので、アシスタントディレクターのバイトに応募した。

何と面接料をとるという!!しかし金に余裕もあったし特に不思議がる事もなく、面接へ、、カメラの前でポーズをしてください。とかカメラの前で自己紹介とか、、させられた。


結果の通知がきた。284人中8人合格しました。あなたはその一人です!

と通知だ。

そこでテレビのイロハを学びながらバイトするというもの。

授業料が最初に50万円かかると、、しかし、ADスタートなら20万円だと。


あほか!やらんわー
って事で、それからテレビ関係の仕事はまだ良いや。と思った。





高三の冬から始めていたバイト。

そこの連中とよく遊ぶようになった。
よく飲んだ。サークルの連中よりも中身のある様々な年齢の人間がいたし、家も近かった奴らが多かったから。
カラオケにもよく行った、そこでネタをやりたい!と思いハーモニカを買った。
長渕剛巡恋歌を練習してできるようになった。  

つまり18歳でネタのためだけに買ったハーモニカがブルースマンfuga A.Oのルーツとなったのだ。



地元の連中とは週一回バスケットをして遊んで、バイクでツーリングもよく行った。


とにかくよく飲みに行ったり、バイクで遠出したり車で遠出したり、、遊びまくったfuga 少年だった。。






■■続く■■